柳生 厳包 (やぎゅう よしかね) ¥113,000.-
柳生厳包(寛永2(1625)年~元禄7(1694)年)は、号を「連也斎」といい、尾張柳生家の始祖である柳生兵庫介利厳の三男として生まれました。幼少より剣術の才能に恵まれ、利厳の高弟、高田三之丞により指導を受けました。「尾張の麒麟児」の異名を持ち、流祖・上泉信綱より柳生宗厳(石舟斎)、柳生利厳と連なる新陰流の剣術を完成させたと言われています。柳生拵は柳生連也斎の愛刀の外装を基にして製作されており、愛刀の大小の茎にはそれぞれ「籠ツルヘ」「笹露」という銘が入っています。
刀の長さ | 2尺3寸5分 | 縁金具 | KY-51 柳生波(真鍮古美) |
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刃文 | 秦光代(はたみつよ) | 鍔 | T-36 柳生(鉄) |
柄色 | TS-03 正絹あずき | 目貫 | MY-73 かこつるへ(真鍮古美) ※逆目貫 |
鞘色 | 千段刻み焦茶ツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |
楠木 正成 (くすのき まさしげ) ¥91,000.-
楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将で、1331年に鎌倉幕府打倒の兵をあげた後醍醐天皇に加勢して挙兵しました。 幕府の大軍との攻防戦では、さまざまな計略をもちいたゲリラ戦法によって幕府軍をなやませました。 1334年の後醍醐天皇による建武政権成立後は、多くの領地と菊水の紋章を授り、南朝の四功臣の一人と称えられ、天皇に重用されて中央政界で活躍しました。 後に建武政権から離反した足利尊氏との戦いに負けて湊川で自害した、最後まで勤王をつらぬき忠義を尽くした悲劇の武将です。 (景光は長光の子といわれ、備前長船派の正系の刀工として鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した刀工です。)
刀の長さ | 2尺4寸0分 | 縁金具 | KY-48 菊水(真鍮古美) |
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刃文 | 備前国長船住景光 | 鍔 | T-107 忠時菊透(鉄) |
柄色 | TS-05 正絹鉄紺 | 目貫 | MY-20 一輪菊(真鍮古美) |
鞘色 | SY-01 黒ツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |
土方 歳三 (ひじかた としぞう) ¥91,000.-
土方歳三は、幕末に近藤勇、沖田総司らと新撰組を組織して副長となりました。 武蔵国石田村(東京都日野市)に土方義諄の4男として生まれ、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、近藤周助のもとで天然理心流剣術を学び、近藤勇と同門となりました。 文久3(1863)年2月、近藤道場(試衛館)の仲間とともに、幕府の征夷大将軍徳川家茂警護のための浪士組に応募し、近藤勇や沖田総司らと京都へ赴いて力を尽くしました。 初代局長・芹沢鴨の暗殺後も、2代目局長となった近藤勇を助けて洛中洛外の警備にあたり、元治元(1864)年の池田屋事件で、彼らの名声は一躍高まります。 明治元(1868)年の鳥羽伏見の戦(成辰戦争)では近藤に代わって隊を指揮するも、敗れて江戸に戻り、その後、名を内藤隼人(はやと)と改め、近藤らと甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織して甲斐国勝沼(山梨県甲州市)で官軍と戦い、下総国流山(千葉県流山市)に敗走。 近藤らが捕らえられた後も、小山、宇都宮、会津と転戦、奥羽列藩の脱藩兵らとともに榎本武揚のひきいる旧幕府艦隊に合流して、蝦夷地に渡りました。 翌1869年箱館(函館)に成立した蝦夷島政府では陸軍奉行並(ぶぎようなみ)に選任されますが、5月の五稜郭での抗戦中、銃弾にあたって戦死しました。墓は日野市の石田寺にあります。
刀の長さ | 2尺3寸5分 | 縁金具 | KY-42 土方(真鍮古美) |
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刃文 | 和泉守兼定 | 鍔 | T-60 土方(鉄) |
柄色 | TS-02 正絹時代黒 | 目貫 | MY-55 山椒(真鍮古美) |
鞘色 | SY-05 茶石目ツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |
直江 兼続 (なおえ かねつぐ) ¥93,000.-
直江兼続は、戦国時代から江戸時代前期にかけて、ひたすら利のみを求める風潮のなかで、「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将として知られています。 兜の前立ての「愛」の文字は、兼続が崇拝する守護神・愛染明王からいただいたものとも、「愛民」という民を慈しむ心の表れだとも言われています。 永禄3(1560)年、越後国魚沼郡坂戸城下(新潟県南魚沼市)にて、坂戸城主長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれ、幼少の頃より政景の次男喜平次(のちの上杉景勝)に仕え、自身が死ぬまでこの主従関係を貫きました。 景勝の養父である上杉謙信から様々な薫陶を受け、その「義」の精神を受け継いでいきました。 天正6(1578)年、謙信の急逝により上杉家の家督をめぐる争い(御館の乱)が起こると、兼続はよく主を支えて景勝方の勝利に貢献し、この時の功績により、兼続は21歳の若さで家老に抜擢されます。 天正9(1581)年、御館の乱の論功行賞をめぐるいざこざに上杉家重臣の直江信綱が巻き込まれて死去するという事件が起こり、上杉家中の名門である直江家が途絶えるのを惜しんだ景勝から直江の名跡を継ぐよう命じられると、直江家を継いで与板城(新潟県長岡市)の城主となり、名乗りも直江兼続と改めました。
刀の長さ | 2尺3寸5分 | 縁金具 | KY-120 愛兼続(真鍮古美) |
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刃文 | 備前国長船住兼光 | 鍔 | T-137 愛兼続(鉄) |
柄色 | TS-01 正絹黒 ※鮫黒 |
目貫 | MY-70 愛染明王(真鍮古美) |
鞘色 | SY-01 黒ツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |
宮本 武蔵 (みやもと むさし) ¥99,000.-
宮本武蔵は天正12(1584)年、美作国(岡山県)に生まれ、13歳で新当流の有馬喜兵衛に打ち勝って以来、60余度の勝負をして一度も敗れなかったと伝えられている名高い剣豪です。 剣理を追求して兵法の奥義を極め、二天一流兵法を創始し、また水墨画家・工芸家としても知られています。 晩年は肥後藩主細川忠利に招かれて熊本で過ごし、本市千葉城町に居を構えて忠利の相談役を務めました。 忠利没後は失意のもと霊巌洞にこもり、自己の武道の集大成ともいえる「五輪書」を記しました。
刀の長さ | 2尺3寸5分 | 縁金具 | KY-46 武蔵(真鍮古美) |
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刃文 | 兼重 | 鍔 | T-95 宮本武蔵(鉄) |
柄色 | TS-02 正絹時代黒 ※鮫黒 |
目貫 | MY-31 瓢箪なまず(真鍮古美) |
鞘色 | SY-44 ワインツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |
織田 信長 (おだ のぶなが) ¥97,000.-
織田信長は天文3(1534)年に生まれ、室町末期に活躍した尾張の武将です。 永禄3(1560)年、信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り世に名を轟かせましたが、その際に貨幣(永楽通宝)を驚掴みにして天空に投げ気運を占うと、全ての貨幣が表側で揃い、「天は味方についた」と言って軍の士気を高めたといいます。 永禄10(1567)年に美濃の斎藤氏を減ぼすと、翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけます。 武田氏、朝倉氏、延暦寺などから成る信長包囲網が結成されますが、元亀元(1570)年に浅井・朝倉両氏を破り、翌年には比叡山延暦寺焼き討ちを断行しました。 天正元(1573)年に将軍義昭を追放すると、天正3(1575)年には長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進めました。 既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)を否定し武力で排除する一方、新しい考え方や文化を取り入れ、出自に囚われない大胆な人材登用や伝統に縛られない新機軸の方針・政策を断行して、応仁の乱より続いた戦国時代の終結を目指しました。 天下統一を目前とした天正10(1582)年6月、家臣・明智光秀の謀反により、京都・本能寺において自害しました。 (光忠(長船鍛冶の祖)は鎌倉時代1239年から1275年に長船鍛冶の頭領として活躍した刀工で、織田信長の愛刀の一つでもありました。)
刀の長さ | 2尺4寸0分 | 縁金具 | KY-113 永楽通宝(真鍮古美) |
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刃文 | 備前国長船住光忠 | 鍔 | T-127 永楽通宝(鉄) |
柄色 | TS-06 正絹時代鉄 | 目貫 | MY-70 古銭(真鍮古美) |
鞘色 | SY-45 暗朱ツヤ | ハバキ | 祐乗(真鍮) |